〜地球環境問題 30年の政治史〜 |
積極的だったアメリカ1972年、国際的には最初の会議である「国連人間環境会議」が開催された。この会議はスウェーデンのストックホルムで開催されたのだが、なぜスウェーデンが他国に先駆けて環境問題に関する国連会議を開催したのか?その最大の動機は、同国で最も早くから環境 問題(酸性雨、環境汚染)が顕在化し、人々の意識が高まっていたからである。 スウェーデンのこのイニシアチブを最も積極的に支援したのは、アメリカであった。アメリカでも1960年代半ば頃から、自然環境の悪化 が一部の専門科の間で問題視され始めていた。そして1962年にレイチェル・カーソン女史が名著『沈黙の春』を書いて、農薬の被害について警笛を鳴らしたのが1つのきっかけとなって、環境問題が次第 に表面化してきた。同時にアメリカでは、ベトナム戦争に反対する学生やヒッピーと呼ばれる若者グループが、反戦運動の余力の捌け口として、環境問題にも少しずつ目を向け始めていたのである。当時、 共和党のニクソンは、アメリカ国民の意識をベトナムから逸らし、反戦ムードを沈静化すると共に、戦争で傷付いたアメリカの国際的イメージアップを図るための方策を懸命に探していた。そこで、この 新しい環境保護運動に前向きの姿勢を示すことがアメリカにとっても得策と判断し、これに至ったのである。
途上国と先進国の対立しかし「国連人間環境会議」は国際的に最初の会議であり、各国の思惑はなかなか一致しないものだから、この準備作業はスムーズ に進んだわけではなかった。まず先進国は、この会議で「公害」すなわち汚染問題や自然環境問題を優先的に取り扱うべきだと主張するのに対し、途上国は、貧困から生ずる諸問題、とくに人間の居住 問題が最大の環境問題であるから、これを最優先課題とすべきであるとして譲らなかった。しかし何といっても、先進国の場合は、主張にも具体性があったのに対し、途上国側はデータも十分でなく説得 力が弱かった。結局は、両者が少しずつ歩み寄って、会議の主要問題分野を絞っていった。また、NGOが会議の中でクローズアップされたのもこの会議が初であった。
経済界の巻き返しところが、このころ日本では経団連を先頭とする財界・大企業の公害に対する巻き返しが起こった。1973年10月、突如第4次中東戦 争が勃発した。そして中東戦争開戦直後から、アラブ産油国が石油輸出制限・禁止措置をとったので、中東石油に依存していた国々は、とたんに深刻な石油不足に見舞われた。石油危機に続き、経済不況 で経営状態が苦しくなると、企業も個人も「背に腹は替えられぬ」というわけで、営業第一、開発優先に逆戻りしてしまった。せっかく順調に芽生えかけていた環境重視の考え方は、まるで風船が萎むよ うに、一気に後退してしまった。
リオのきっかけ「我ら共通の未来」この状況を打破し、再び環境マインドを世界的に復活させる目的で、ストックホルム会議10周年記念の国連環境計画(UNEP) 特別理事会が、日本の主導により1982年ナイロビで開催された。この会議に日本政府を代表して出席した原文兵衛環境庁長官は、高い見地から環境問題について提言を行う委員会(環境と開発に関する世界委員 会)を設けることを提案した。この会議は、今日の環境問題のキーワードである『持続可能な開発』という概念を提唱した。そして1987年、この委員会の報告書「我ら共通の未来(Our CommonFuture)」が、「地球サミット」開催の直接のきっかけとなった。 一方1989年頃から先進国サミットにおいて、環境問題が有力な議題として取り上げられ、熱心な議論がなされるようになった。しか し、この時点では、フロン問題でやや一致が見られた他は、期待されるほど解決への合意は見られていない。 その後1980年代末の東西対立構造の崩壊とともに、ポスト冷戦時代の「新世界秩序」が求められる中で、地球環境問題は新時代の 世界共通の課題として再登場し、ストックホルム会議20周年を期して1992年リオデジャネイロで開催された「国連環境開発会議(地球サミット)」で頂点に達したのだ。
課題は手段と資金ストックホルムで国連人間環境会議が開かれたのが、1972年。大気汚染など他の公害とともに、環境の破壊がこのまま進めば、人類 は生存さえも怪しくなるとの危機感が広まった。しかし、環境への意識は高まったものの、人間環境会議で定められた行動計画はほとんど実現しなかった。手段や資金などの具体的な取り決めを欠いてい たからだ。この間、地球温暖化やオゾン層の破壊が身近に迫った。このような危機感を背景に国連が本格的に取り組んだのが、人間環境会議以来20年ぶりに、ブラジルのリオデジャネイロで開かれた地 球サミットであった。今度は人間環境会議の反省を活かし、手段や資金の取り決めが整えられた分野もあった。しかし、それらも実際には思うように進んでいないのが現状なのではないだろうか。 (文責:星野敬子) |
KeyWord人間環境宣言1972年6月にストックホルムで開催された国連人間環境会議で宣言された。前文で「人間環境の保全と向上に関し、世界の人々を励まし、導くため共通の見解と原則」とうたう。自然環境と人工的環境の両者が福祉、基本的人権、生存権の享受のため不可欠であり、環境保護と改善が全ての政府の義務であるなどとした上で、「共通の信念」として、天然資源の保護、再生可能な資源を生み出す地球の能力の維持と回復・向上、野生生物とその生息地の保護、有害物質の排出等の停止、海洋保全の徹底、生活条件の向上、途上国の環境保護支援、都市計画上の配慮、環境教育、環境技術の研究と開発などを列挙している。 地球サミット(UNCED)持続可能な開発に関する国連会議)1992年6月 リオデジャネイロ・ブラジルで開催された。環境の保全と持続可能な開発をテーマに179カ国の政府首脳や自治体、NGO関係者が集まった。地球温暖化やオゾン層破壊、自然破壊、野生生物の危機、廃棄物問題などの環境問題は、南北問題や人口増加、労働問題、都市化などの社会経済問題と密接に関連している。こうした認識に基づき、各国・各セクターが共通の場で議論し、環境保全と持続可能な開発に世界全体で取り組んでいくための方向性と具体的な手法を提示することを決めた。環境と開発に関するリオ宣言、アジェンダ21を政府合意として採択し、気候変動枠組条約の署名を開始した。 アジェンダ21(Agenda21)正式名称は「持続可能な開発のための人類の行動計画」。1992年6月にブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開催された「環境と開発に関する国連会議」(地球サミット)で採択された「リオ宣言」の一つで、環境保全と持続可能な開発のためにまとめられた20世紀最大の合意である。リオ宣言に盛り込まれた原則を踏まえて、署名した各国政府が21世紀に向けて実施して行く具体的な政策課題が、40分野にわたり整理されている。また、持続可能な社会を形成するために、国だけでなく自治体やNGOなどあらゆるセクターが、政策決定のための主体として位置付けられた。 CSD 持続可能な開発委員会CommissiononSustainableDevelopmentの略。1992年6月に開催された地球サミットで採択された「アジェンダ21」の中で、ハイレベルな「持続可能な開発委員会」を設立すべき、とされたことを受けて、国連経済社会理事会の機能委員会として93年に設立された。国連や専門機関加盟国の中から選出された国々で構成され、アジェンダ21の実施進捗状況の監視、資金源及びメカニズムの妥当性についての定期的見直し、NGOとの対話強化−−などを主な役割とする。 |
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