■チェルノブイリの事故から
1986年、小さいころから抱いていた核への拒否感がぐっと身近になる事件が起こる。チェルノブイリの原発事故だった。「小倉の代わりに長崎が爆撃されたこともあって、小倉では原爆教育が盛んだった。また在日朝鮮人や被差別
部落の人たちが身近にいたことなどから、公平や平等ということに対する関心が強かった」という大林さんは、事故以来、原子力問題についての本を読み始め、放射能で汚染された食べ物のことを知った。さらにその汚染された食べ物が、原発による電気をほとんど使っていないような途上国に送られたことや、原発内で危険な仕事に携わる被爆労働者の存在などを知った。「原子力は弱者に負担を負わせる不平等な社会の象徴に思えた」という。
育児を始める前は英語の講師などをしていた大林さんは育児が落ち着いた後、新しい仕事を探し始めた。高木仁三郎氏(市民科学者として反原発運動に取り組む。著書多数。2000年他界)の本をよく読んでいたこともあり、原子力資料情報室(原子力に関する独立した調査研究を行うNGO:http://www.cnic.or.jp/)に電話をして、そこで仕事を手伝い始めた。一年間パートタイムとして働いた後、スタッフとして採用されたという。いくつかのプロジェクトに関わりながら、自然エネルギーの勉強会にも参加した。そして自然エネルギー促進などに取り組むために、現在の環境エネルギー政策研究所等を仲間とともに立ち上げた。
■NGOでの仕事
「NGOで働くことと企業で働くことは違うと思う」。NGOの仕事と普通 の企業で働くことは似ていますか」という質問に対しての第一声だった。「同じ人の活動でも家族のこととか将来の世代のこととか、究極に据える目標が違う。またNGOであることで、企業的視点からでも、草の根の視点からでもアプローチできる自由がある」と答えてくれた。しかし続けて「企業で働いていたり、大学で働いていたりしながらアフターファイブではない形でNGOをやっている人はたくさんいる。そう考えると肩書きで分けるというより、その人の立っているスタンスで分けるほうがいいと思う」とも語っていた。つまり「どんな立場の人間でも、将来世代のことや南の世界のことを考えて行動できる」ということだろう。
しかしながら「NGOプロパーで働く人間には説明責任がある」という。責任とは、例えていえば「理想の社会像を持った人たちに対して具体的なビジョンを出していくこと」だ。専門家と市民の間をつないでいくこともまたNGOの役目だろう。行政や専門家の言葉を市民に向けてわかりやすく翻訳し、市民の声を政府に届ける。また政策提言型のNGOであれば、ある種専門家集団としての政策を創っていくことが仕事の中心となるけれど、運動をしている人間だけが浮き上がってはいけない。自分の生活を日々淡々と重ねていく人たちの日常生活の中での様々なサポートがなくては運動は成り立たないのだから。
NGO活動自体の持続可能性を保つために「NGOスタッフとしての高い専門性を持ちながら、いつも横にいるサポーターのことを考える」という姿勢を忘れてはいけないだろう。!
2002年春 聞き手・文:高木佑輔
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