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学校から社会に向けて〜歩き、考え、伝え続けること〜
 
今まではNGO・NPOの仕事を主にとりあげてきたが、環境や人権を守る仕事はそれ以外にもたくさんある。今回取材をお願いした、中学校で働く東さんのお仕事もそのひとつ。

【東昌宏さん】
法政大学第二中学校で国語を教える先生。授業やホームルーム、図書館づくり、ファームステイや水俣・長崎への旅の企画などを通 して、子どもたちに環境や平和、人権を考える機会を提供している。最近はエスペラントを使ってチェコやキューバにも旅をして教材を集めている。


 
 

ラジオ・ハバナの放送室にて

「エスペラントで、イラク戦争中、平和を祈りましょうと呼びかけました」

 

■東さんのお仕事

 「OVO」「MONTARO」…エスペラントで「卵」「山脈」を意味するこのタイトルで、東さんは教室で通信を発行されている。紙面では、キューバの有機農業や人々の暮らし、フランスのフレネ学校のようすなどを、ご自分の畑生活、ホームルーム、授業の課題に重ねて紹介されている。これらの教室通信は15年間の教職生活の軸になってきたという。

■先生になるまで 〜広く考え続けること

 東さんは高校まで徳島県で育った。大学では日本文学を専攻するが、博士課程まで進んでも日本文学を本当に専門にすることはできなかった、国語教師になったのは、「広く考えること」を続けたかったからだという。

 「方法と対象を限定して論文の業績をあげるということには熱心になれなくて、指導教授とよりも、学生結婚した妻と互いに読んだ本について話をしていた。そのうち父が癌になり、看病のため郷里と東京を往復する慌しい時期に就職試験を受けて内定してしまった。だから教師になったのは成り行きなのです。ただ、まだ何かを探しつづけている自分が、何かを探している子どもと一緒に考えていくことは許されるかもしれない、と思ったのです」

■水俣 〜杉本栄子さんとの出会い

 学校に入ってしばらく、図書館を縁側のようなところとして学校の辛さを耐えていたという東さん。「思い上がって」学校を変えようとして、くたくたになっていたころ、修学旅行のコースをさがすために水俣に行き、そこで水俣病患者の漁師・杉本栄子さんに会ったという。

 「向き合って話し始めると、ほろほろ涙が出てきたのです。自分でも驚きました。僕の悩みがこのくらい(と手で示しながら)だとしたら、栄子さんの味わった苦しみはもう比べものにならないくらい深いわけですよね、そのことも後からだんだんわかったのですが。そのとき僕は、生徒達を杉本さんの前に座らせたい、正対させたい、と思ったのです。杉本さんと正対したときに僕に起こったことは、生徒にも必ず起こる、とにかく連れて行きたい、と」

 そして東さんは、栄子さんに会うことを軸として旅行を企画した。旅行の引率は同僚に引き継がれ、今年で6年目になるという。環境問題なんて言葉は使わなくても、山が無ければ海は無いということを自分の体を通して知っているという栄子さんの存在は、生徒達をどんなに動かしたことだろう

 東さんは今、自分が食べるものを自給することをめざして田畑に通っている。練馬の白石好孝さん主宰の「風の学校」、奈良の川口由一さん主宰の自然農の合宿会など、農についても、広く考えながら取り組む姿勢は変わらない。教室と田畑の往復が、学校というシステムは変えられなくても、東さんの学びのスタイルを作っていることだけは確かなようだ。

 * 杉本栄子さんのお話は例えば『証言 水俣病』(岩波新書)などで読むこともできます。


2003.5.6下北沢にてインタビュー 聞き手・文: もん